表の家

昔日の松戸31-35


35 松北堂書店−根本商店街


竹ヶ花の踏切西に渡り、少し歩いた右側に松北堂書店さんがあった。大田原米店の二軒手前。

中学生の頃、私は大のプロレスファンで『ゴング』というプロレス専門誌を松北堂書店さんで購入、松
北堂受取りでバックナンバーも注文した事もある。松北堂は良く通った店だ。ここの店主、顔かたち
は柳家小さん師匠似、つぶらなドングリ眼で優しそう、でも頑固で昔気質。大人が漫画を立ち読みし
ていると「大人の漫画の立ち読みはお断りだよ」と大声で言うものだから何となく客が寄りつかない。
私の母方の新小岩の祖父(三十数年前に他界)を思い出す。ところが後に廃業してしまった。店無き
後暫くは週刊誌の自動販売機を置いていたがいつしかそれも消えた。

根本・竹ヶ花はそもそも旧水戸街道筋であり、小さな商店がたくさんありとても活気のある街だった。
大繁盛とはいかないまでも堅い商売が出来た場所だったはずだ。それを変えたのは国鉄の複々線
工事だと思う。千代田線からの乗り入れの為、それまでの複線にもう一つ複線が出来た。

この為、踏切は効率が悪い、危険だとなり、次々に踏切が閉鎖され跨線橋又は地下連絡路に取っ
て代わった。根本のキャバレー大宝前の開かずの踏切に替わり跨線橋が出来きたが、全く無味乾
燥な連絡手段になってしまった。竹ヶ花の踏切は閉鎖された後、歩行者用に歩道橋が出来た。自動
車用は分けられ、別に跨線橋が出来てヤマザキパンの工場の所で大きく迂回する形になった。

東西ドイツの壁ではないが松戸を東西で分断してしまった複々線。その結果、人の動きが変わって
しまい、商店街はすっかり活気を失った。勿論その理由は複々線だけではなかったかもしれない。古
い商売のあり方が現代人の生活と合わなくなって来たことも大きいかもしれない。

私が産まれた頃松戸の人口数万人、現在は四十七万人強。圧倒的に人口が増えた。工場も誘致し
た。東京の衛星都市化を推進し、人口を増やし工場を誘致するのは松戸市の政策の一つだった。
実際その通りになった。その政策の大きな理由は人が増え金が回ることによって商店に活気がみな
ぎり松戸市全体が発展する為だったはずだ。その結果、どんな風に変わったか現在の松戸駅周辺
を見てほしい。

人はこんなに増えているのに、発展どころか商店が一つ一つ消え、後から出来るのはマンションば
かり、商店街がゴーストタウン化するのは見るに堪えない。
☆松北堂書店の写真はご近所にお住まいだった小倉様からいただいたものです。
ありがとうございます。
2013/03/30更新

34 森栄堂−根本商店街

竹ヶ花の踏切を西に渡り根本商店街に入るとと森栄堂があった。ちょうど山長さんの前。和菓子・洋菓子となっているがパン屋さんとして馴染みが深い。私の小さい頃は、勿論コンビニなど無い時代で、パンを買うときはパン屋さんで買う(もっとも今でも良いパンはパン屋さんで買うけど……)。

販売店舗は旧水戸街道に面していたが、その裏、新坂川沿いにパン工場があった。工場前を通ると焼き立てのパンの良い香りが漂った。北部小学校の給食のパンも製造していた。一般販売用のパンは美味しかったのかもしれないが、給食用のコッペパンはお世辞にも美味しいとは言えず好きではなかった。いつも残してしまい、机やランドセルに隠した。隠しているうちに、コチコチに堅くなってしまうのは良いとしても、湿気の多い時期青カビが生えおぞましい姿になっている事もあった。

ある時期、事業がうまくいかなくなったのか、廃業してしまった。森栄堂の工場は勿論稼働してないが、建物自体は廃墟の様にして残っている。森栄堂のご子息(男性)は時々松戸駅付近で見かけるが……かつてのバリっと颯爽とした感じはない。
追記1:2007年12月頃あのご子息が歩いているのを見かけて以来、お見掛けしない。
追記2:2009年1月元森栄堂パン工場の解体作業が行われていた。現在は更地。

33 イセウストア−松戸駅東口

松戸駅東口にイセウストアがあった。ここは一階が果物、野菜などを売るスーパー、二階にレストランがあった。当時は松戸にはニュートーキョーを始めとした洋食レストランはあったが、両親が連れて行ってくれたのはイセウストアの二階レストラン。
イセウストアのレストランは規模は小さかったが高島屋の地下大食堂の様なメニュー設定でハンバーグ、スパゲティ、お子様ランチなど所謂洋食と言われている食事を出していた。子供にとってのお目当てはデザートのチョコレートパフェを初めとしたパフェー類、サンデー類だ。どちらかというとデザートが食べたくて行くようなものだった。同級生や学校の先生にばったり会う事も少なくなかった。

ある日、両親とイセウで食事していた時、いたずらっ子の私はストローの紙カバーで遊んでいた。ストローの紙カバーの片方をちぎりストローから思いっきり空気を吹き込むと紙カバーが飛ぶ。これが面白い。勢い余ってフーと吹いて遊んでいたら、こともあろう事にその紙が何故か先生の方に飛んで行ってしまった。

先生はあまり気にしていない様子だったが、両親は恐縮し謝罪していた。その後、イセウレストランはなくなりコーヒー香保里ができた。いつしか建物は建て替えられイセウビルとなった。コーヒー香保里はカフェドカオリに変わっていた。

(写真は当時のイセウストアの写真で、「松戸市の歩み写真集」より部分的に転載させていただいた)

32 松戸市立北部小学校の火事−根本

昭和四十二年十二月八日朝四時頃北部小学校が火事になった。
(写真は広報まつどNo.218より転載)

朝、両親に起こされると部屋の南側に面した窓が真っ赤に見えた。まるで隣地が火事になったように明るかった。窓を開けると、北部小の火事であった事が分かった。自宅から燃えている木造校舎まではほぼ二百メートル近く離れているにも関わらず、燃える炎で暖かった。

これはとてもショッキングな事だった。火元は事務室(つまり職員室)。火事の原因については、当時色々な噂が囁かれた。当時の生徒だったらみんな知っている事ではあるが、確信が持てないため何十年経ってもあの噂だけはここには書けない。

二度とああいうことの起きないことを願いたい。

31 ドジョウ刺しのお話−竹ヶ花字清水下

これは父から聞いた話。
父が幼少の頃、つまり昭和十年前後、祖父と一緒にドジョウ刺しに行ったそうだ。ドジョウ刺しとはつまりドジョウ採り。場所は竹ヶ花字清水下の田圃。常磐線の線路から江戸川まで延々と田畑が続いていた。そして季節になるとドジョウ捕りに行く。

夜半のまだ暗い頃、腰にカンテラをぶら下げていく。そして図の道具の柄を持って、水田の上から針の部分をおろして行くとドジョウがその針に絡まって採れる。針は横に引くのではなく縦に下ろす。取れたら魚籠に入れるを繰り返す。

採れたドジョウをどうするかというとドジョウ汁にする。然しながら、ドジョウは煮ると腹を上に向けて浮いてしまうので、なんとなく気味が悪くて家でのドジョウの人気は今ひとつだった。

確かに、柳川鍋などを食べると卵でとじてあるが、これは煮た時のドジョウの腹が浮く気味悪さを軽減した料理方法という事になるのかもしれない。後にこの漁法を調べるとヨドブチと書いてあった。五、六月に回るらしい。その時期が産卵を控えて一番味の良い時期だかららしい。まだ暗いうちにヤスで突く、叩くようにつくことから図の道具をタタキヤスと言われた様だ。

さて、後日不思議に思った事があった。それはドジョウを五、六月に捕りに行くと書いた事だ。五、六月といえば田植えをして苗が育ち始める頃で、そんな時期に田に入れるのだろうか?と……
調べてみたら、それは田植えの方法の変化からくるものだったようだ。現在は田植え機で植えるので苗が小さい方がいい。従って早いうちに田植えをしてしまう。肥料も化学肥料であろう。ところが昔は手植えでその前提として地区などではレンゲを植え、育ったらすき込む農法が多かったらしい。松戸の下谷にあたるこの地区でレンゲ農法であったかどうかは調査が必要だが、松戸で田植えの時期はほぼ同じであったとすれば昔は六月中旬頃に田植えしていたと仮定してもおかしくない。