表の家

昔日の松戸21-25


25 保養施設:ブーゲンビリアは何処に行った?


「東洋のハワイで遊ぼう八丈島市民保養所オープン待望の八丈島市民保養所“ブーゲンビリア”の第一期工事がこのほど完成、この五月十日に仮オープンします。八丈島は東洋のハワイともいわれ、四季を通じ太陽と緑がいっぱいの南国情緒豊かな夢の島です。
観光、レジャー、保養に広くご利用ください。

☆ 宿泊設備・・・木造二階建て客室十九、収容人員七十五人引き続いて大温室食堂、大浴場、プールさらに第二期工事として鉄筋コンクリート二階建て客室十九室、収容人員百三十四人の新館の建設を予定してます。
☆ 利用料金・・・おとな千五百円、こども七百五十円(一泊二食付、市民利用の場合)
☆ 交通案内・・・1:航路(東海汽船)約十時間、二等千四百六十円(片道) 2:航空路(全日空)一時間、五千二百円(片道)
☆ 宿泊申し込み・問い合わせ・・・松戸市都市整備公社(市役所内電話61-1111 内線298番)保養所の愛称 ブーゲンビリアとは南米の熱帯・亜熱帯に分布するあまり大きくない木です。
花は淡紅色か黄の小型。花を包んでいる三枚の苞(ほう)は花よりも目立ち、色はさまざまです」
(当時の新聞より)
昭和四十六年頃松戸市の市民保養所として八丈島に大きな保養所が出来た。ブーゲンビリアだ。アイデア市長で有名だった故松本清市長が個人資金で作ったと聞いたが本当なのかは分からない。

鳴り物入りでオープンしたはずのこの施設、三十数年経った今案内らしきものは何もない。松戸市役所のホームページを見ても全くない。その後の広報まつどにも載っていない。 財政難で潰れたのか人の手に渡ってしまったのか?その後の状態について知りたい。

もっとも船で往復して三千円(当時の三千円は今では三万円くらいか?)で宿泊が千五百円となると一利用者としてやはり出費が気になる。ブーゲンビリアよりも船橋ヘルスセンターに行った方が手軽で格安であったろう。知人にこのブーゲンビリアに宿泊経験がある人はいない。それにしても一度くらい宿泊したかった。

24 赤ちゃんコンクール−松戸保健所

第一次ベビーブームの影響なのか或いは梓みちよの『こんにちわ赤ちゃん』のヒットの為なのか良く分からないが赤ちゃんコンクールというのがあった。広報まつどに写真のような広告が出ていたものだ。県と新聞社の共催となってはいるが、地区代表を決める予選には自宅付近にあった松戸保健所が使われていた。今もこういうコンクールはあるのだろうか?実は私も赤ちゃんコンクールに出たことがある。出場場所は何故か日本橋高島屋だった。

当時は栄養事情の悪い時代背景の為、太っている赤ちゃんが健康的であるとされたらしい。優勝するためには体重が多めになってないと駄目だった。多くて初めて健康優良児になれた。それを心配した母はコンクール直前に私に高島屋地下大食堂でハンバーグを食べさせたらしい。
体重を増やそうという魂胆だ。結果、母のそんな苦労も報いられず私は入賞出来なかった。その夜、ハンバーグなんていう食べ慣れない物を食べた私は下痢をして痩せてしまったそうだ。

同級生のAK氏も赤ちゃんコンクールに出場ししかも堂々優勝したらしい。当時は健康優良児としてかなり太っていたらしいが、AK氏が松戸に転校してきた小学校5年生当時は見る影もなく痩せていた。何故?と聞くと子供の頃赤痢にかかり痩せてしまったのだとか…赤痢にかかるとは時代がわかりますがね…

23 松戸奈良屋−根本 市役所付近

昭和40年代は松戸の商業に変化が現れた。大型店舗の登場だ。扇屋、長崎屋、奈良屋等…竹ヶ花の自宅から最も近いところは奈良屋。奈良屋は千葉が本店では由緒正しいデパート。ただ、松戸店は千葉ほど規模は大きくない。

地階が中華レストランの松苑。地上階は二層分が物販店舗。物販店舗より上は住宅公団。近所の薬屋さんサンドラッグのご主人もこの住宅公団に住んでいて一度遊びにいった事がある。キッコちゃんという名前で可愛いお嬢さんが居た。今は薬剤師になっている。

デパートなどの大型店には通常子供用遊技機があるものだ。ところがこの奈良屋にはみすぼらしい子供用遊技機が屋外の犬走りに数台申し訳程度にあるだけだった。それは十円入れると前後に振れるゾウさんやキリンさんなどの動物跨ぎの遊技機だった。でもこれでは満足できない。

私にとってのデパートとは日本橋高島屋だった。日本橋高島屋には屋上に遊園地もあり、又地下大食堂もあった。あの食堂でお子様ランチを注文すると国旗の刺さったチキンライスが出てきた。高島屋に比べたらあの奈良屋はデパートとは呼べない規模の小さいスーパーの延長だったが、家から近かったこともあり、子供の遊び場としてもってこいの場所だった。

奈良屋は当時販促の為ブルーチップスタンプを扱っていた。買い物をすると金額に応じてこのブルーチップスタンプをもらう。これを台紙に貼って決められた景品をもらうシステム。ある時買い物をしたレシートを専用カウンターに持って行くと福引きをひくことが出来た。当たるとブルーチップスタンプがさらにいただける。そんな催しがあった。子供にとってそれを集めたからどうなるわけではないが、お店の床に落ちているレシートを目を皿のようにして友達と一緒に探しに行ったことがあったっけ。

その後松戸の奈良屋は閉店し、後に土屋家具センターになってしまった。創業200年の歴史をもつ千葉奈良屋は千九百八十四年、千葉三越に名前を変えてしまった。松戸の奈良屋が閉店したのもその時だったのかもしれない。
補足(平成二十一年五月十日):奈良屋附近に在住されていた「るみるみ」さんによれば、奈良屋がオープンする以前の半年間「ショッピングセンターときわ」が営業していたそうだ。出店していたのは一階:パン屋、まるちょう味噌、漬物の丸菱食品、豆腐屋(川光の前、流山街道に行く道の角)、佐藤製麺、二階:雑貨売り場などがあったそうだ。

22 松戸輝竜会館−春雨橋付近

松戸駅付近にあった映画館と言えば松竹館、常磐館、松戸輝竜会館。子供の頃から最も馴染みある映画館と言えば松戸輝竜会館だった。その理由はやはり怪獣映画上映であろう。怪獣映画を見に行くと大抵二本立てで、「モスラ対ゴジラ」と「エレキの若大将」と言った感じで子供の映画+大人の映画という組み合わせになっていた。全盛期の松戸輝竜会館は本当に混雑していてあの前庭にヘビががとぐろを巻くように並び後尾が分からないほどだった。

中に入っても座れず立ち席で、床に新聞紙を敷いて見たこともある。 幸い座ることが出来てもそもそも松戸輝竜会館の椅子は長時間座るとおしりが痛くなる。クレゾールの臭いもする。要するに便所臭い。映画が始まる前、ニュースが放映されたり地元の商店の宣伝などが流れた。当時はまだテレビがない人も多かっただろうし、映画館のニュースは貴重だったと思う。 近所の牛久さんの次女(だったと思う)が売店に勤めていた。

また、同敷地内のバンビは洋物の映画が多く、北部小学校の生徒が授業の一貫としてやってきて「子鹿物語」を見た。裏の川沿いの道が好きで松戸輝竜会館に行く際は何故か表通りからではなく、大抵坂川沿いの道を歩いた。宝光院の近くに幼稚園があった…文華幼稚園だろうか?春雨橋の付近は鬱蒼として対岸からムクノキが生い茂り暗かった。輝竜会館は今屋外駐車場になり、坂川への見通しがすっかり良くなってしまった。松戸輝竜会館が無くなったのは何とも寂しい。

21 内山医院と納豆工場−根本



根本の根本保育園付近に納豆製造をしている家があった。金山神社の参道、線路沿いの一群の住宅街の中。家の造りは工場然とはしている訳ではなく普通の住宅のような建物。市岡さんと言う家だった。

何ともジメジメとした場所だった上に、内科・皮膚科の内山医院が隣地にあり、医院の薬臭さと工場の納豆臭さがコラボレートして饐えた(すえた)ような何とも言えない臭いが漂っていたものだ。人がたまりかねて医院の内山先生に納豆の臭いについて話すと「何を言って居るんだ、良い臭いじゃないか」と言ったそうだ。内山医院は藪医者だと言う人もいたが多分名医だったと信じている。北部小学校講堂で定期的な予防接種の時、内山先生も来ていた。寅さんシリーズのおいちゃん役で出ていた松村達雄のような顔立ちの人だった。

納豆工場で販売していたのは`たまご納豆`だ。経木(きょうぎ)を使い、三角形にくるまれ赤く印刷した紙で覆われていた。今は無き豊田商店(おばけ屋)と南花島のボウ屋に卸していた。たまご納豆は粘りが悪かったのが今でも不思議。豊田商店はその後セブンイレブンに変わったが豊田商店の息子さんが同様にたまご納豆を扱っていた。

あの家も色々とあったらしく、セブンイレブンも消え土地は人手に渡りマンションになった。現在根本の美寿可そば屋の前にあるセブンイレブンは全く異なる店。納豆工場、内山医院付近はその後テニスコートになったが現在はマンションに変わった。